その「キャベツ配達人」始動の数時間前。






 啓兄ィ起きてー!と部屋のドアの向こうから緒美の声がする。
寝かせろ…とイトコには絶対に聞こえないであろうが、そうつぶやいて頭から布団を被った。


 この数日はとにかく慌ただしかった。東京まででて、やれあいさつまわりだとか、何かしらの手続きだとか、下見だとかで平日昼の人集りの中を地下鉄、ビルとはしごして散々歩き回り、名刺と、良くも悪くも社交辞令にまみれていた。

今日は夜に渉と約束しているくらいで、あとはフリー。ゆっくり過ごそうとイトコの再度の呼びかけにも聞こえないフリを決め込んだ。

そこに息を吸い込む音まで聞こえるほどに、深く息継ぎをしてイトコが声を張り上げる。
「携帯鳴ってるよー!!」





「マナーモードにしたまま台所に置きっぱなしだったんだから」と、コーヒーを啓介の前に置くと「涼兄ィおかわりは?」と涼介のカップをのぞき込む。


日曜の昼。
忙しいおばさんのかわり〜!と、このイトコは何かに付け高橋家に来ては、日々精進中の食事を振る舞っている。

「もらおうか」
そう言って涼介がカップをソーサーに戻すと、はあいと機嫌良く返事をしてコーヒーを注ぐ。

きっと語尾にハートマークとかが付いているに違いない、と思いながら啓介はコーヒーに口を付けた。



 飛び起きて取った電話は史浩からで、前に啓介が見たいといっていたDVDが戻ってきたから、時間の都合がついた時にいつでも取りに来てくれ、という内容だった。

それ以外に着信はない。


ホッとしたような。


・・・そうでもないような。


それですっかり目が覚めてしまい、シャワーを浴びたあと涼介・緒美との三人でテーブルを囲み、緒美に小言を言われている、というわけだ。

 そうだ、昨日の夜
人の波にうんざりしながら帰ってきて冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出したときに忘れていったんだ。
しかし毎日毎日、よくもまああれだけの人間があふれ出てくるものだ。
思い出すだけでも、どっと疲れる。


「あれだけ毎日他人に囲まれて、人混みにもみくちゃにされてると一人になりてーって、思うな」
それが日常になっている、あの『人混みを形成している人たち』はすごい、とちょっと間の抜けたことを思っていると


「啓兄ィは思ったあげく、そう言いそう。一人にして、って」
「言うだろうな」
少し笑って涼介まで便乗する。



・・・・・・・・・・・否定できない自分もどうなんだ・・・。


反撃できないのをごまかすように、まだ半乾きの髪をごしごしとタオルでこすった。

「かといって、ずっと一人でいるというのも、な」
自嘲か本音なのか、涼介は小声でそう言った後カップを置き、新聞に目をやる。


「「一緒にいてあげようか?」」


すかさず二人が声をひろうが、笑って
「遠慮する」
集中できなくなるから、とあっさり断られてしまった。


Dが終了してからというもの、涼介は以前にも増して医大か自室にこもりっきりになった。
・・・まあ、前から車のことで自室のパソコンとにらめっこばかりしてはいたが。


 この数年、兄と同じ方向を見てきた。
ずっと一緒だったその兄と、きっちり歩む道を分かつ時がきたのだと、少しずつ実感が湧いてきた。
いわばDはそうなる為の礎ではあったが、D最後のバトルが終ったあの日。作り上げた数々の記録と共に、その分岐のスタートラインに立ったのだと思った。


兄が医者を目指し、両親の跡を継ぐということ。


今はもうそのことに不満はない。

しかし、兄の車への様々な才能が生かされることがなくなるのかと思うと、少しもったいない気はする。


「緒美、おいしかった。ごちそうさま」
そういって二階の部屋へ戻ろうとする涼介をあわてて緒美が追いかける。


「涼兄ィ、夕飯のリクエストある?」
「何でも良いよ」

トントンと階段を上り、パタンとドアを閉める音が聞こえてくる。

じゃ、オレも史浩からDVD借りてこようかな、と階段の脇で立っている緒美の側を通りつつ

「オレ夕飯いいよ。約束あるから」

そう声を掛けると、イトコの目からじわりと涙がにじんだ。
「うわっ、何だ!」
と、思わず叫ぶ。





――――頭の中で。





「私、涼兄ィの役に立ててない」
「んな事ないだろ」

小さい頃はよく緒美とケンカして泣かせてしまったりもしたが、その・・・何だ、高校生ともなるとさすがにドギマギする。


「私いると邪魔かなぁ」
「・・・・・・・オレの返事、聞いてた?」
「いてもいなくても同じだよね」
「あのさ・・・お前が居るからアニキ 部屋から出てきて、ここで飯喰うんだぜ。お前が来る日曜以外は外か部屋で喰ってんだから」
「気、使わせてる?」

おーおー、珍しくネガティブだな。

益々メソメソし始めたイトコに少し動揺しながら「あー・・・」と自分でも真抜けた声出してんな、と思いながら言葉を足す。


「じゃなくて、息抜きしたいな、って思わせてるんだろ。アニキここんとこずっと一人だろ。車と勉強のこと以外は本当に無頓着な人なんだから、お前みたいにズカズカ入り込んでくる人がいいんだって」

「・・・バカにしてるの?」

「お前と居ると居心地いいんだろうな、って見ててわかる。だから、安心してまかせられるって言ってんの」

柄にもないこと言わせんな、とイトコの頭をぐいと向こうへ押した。
素直に啓介の手のひらを頭に乗っけたまま、はた。と啓介を見上げる。






「・・・・・・啓兄ィ、そんな人がいるんだ」












「――――――――――――――――――――は?」








完全なる不意打ち。

何言ってんだ
と、成功とはいえないごまかしを捨て台詞にして階段に足をかけると、携帯が鳴り響いた。



恭子からだった。


Dメニュー